育てるということ
なんだかふと思ってしまったこと。
ちなみに自分もどちらかと言えばこのようなことについては悩んだ方だと思う。
現職が教員とか、教育者であるだとかそういったことではなく。
ただただ間違って認識している人が多いのではないかな、と思ったので綴ろうと思う。
だが、ここで綴るのは個人の意見であり絶対そうだ、ということではない。もしこのような立場になったのであればこのことを少しだけ思い出していただけたら幸い。という程度である。
暇つぶしには向かない。
- 育てる、ということ
これを聞いてみて、皆はどう思うだろうか
自身が持っている知識を相手に伝えるだけ
と思っているのではなかろうか。
それは大きな誤りである。大切なのは伝えた上で相手が理解をしているかということにある。
そこで問題が起きるのが、解釈を間違いなく伝わっているかどうか
簡単に言えば本当にわかっているかである。
前者はあと少し補足してあげれば伝わるだろう。
しかし、本当にわかっているかは聞いてみなければ分からない。
そこで教える側として注意することが分からないに対する姿勢だ。
分かりたくて分からないのか、分かりたくなくて分からないのか。
分かりたくなくて分からないとは何か?が不思議に思う人がいるだろうと思う。
これがここで伝えたいことのネックであり肝心なところである。
- 分かりたくなくて分からない
つまりそれは諦め、ということ。
もう自分には分からない。なのでもういいです。お手上げです。
諦めから生じる分からないはもう分からないままでいい。強い言葉ではあるが教える価値もないと考える。最終的に後々後悔するのはその人自身だ。
自身に分かりたいという気持ちがなければいつまで経っても伝わらない、要するに時間の無駄である。
しかし分かりたくて分からないは違う。
勘がいい人であれば何を伝えたいかが伝わったと思う。
この分かりたくて分からないにはおおいに時間と労力をかけるべきである。
これこそが育てるということ。伝えることの難しさをしみじみと思う。
中にはあまりにもわかってくれないからと教えることを諦める人がいる。
一応、自分もその中の含まれるような経験をしたことがある。
それは学生時代に起きたこと。
残念ながら勉学は得意ではおらず、このような文章を綴っているが数字での点数は酷かった。
「ここまで伝えてもわからないか、ならいい」というニュアンスの言葉を耳にした。
もしくは「なぜわからない」と怒り出す。
しかし、こちらとしてはわかりたくてもわからないのである。
こちらに非があるのだろうか?
だがここでそれは違うのではないかという持論を唱えさせてほしい。
- 教え方に問題があるのではないか
これだけを提示するとなんて上から目線なのだろうと思う方もいると思う。
だが、少なからずこういったことはありえる。
であればどうすれば相手にわかってもらえるのだろうかということを冷静になって考えてほしい。
それをわかっていて伝えることができるのは教えるあなたしかいない。
そのようなことを考える時間さえおしい環境にいるのであればお役御免か、他者に相談したほうがよいと思う。
だからとはいえ、教えられる側もあなたの教え方が悪いといった姿勢でい続けるのはいけない。
結局のところ、その人の時間をいただいている立場ではあるので何がどうわからないのかを伝える努力は必要だ。
それは初めて聞く言葉であり、作業であって何がわからないのかすらわからないこともあると思う。
しかし、このことを相手に伝えないと見捨てられてしまう可能性があるため気を付けてほしい。
御託を並べてばかりだが、ここでの伝えたいことというのは
教える側、教えられる側で双方の努力と時間が必要
ということである。
決して、教える教わるということは短時間で済む話ではない、ということだ。